元禄二年(一六八九年)、松尾芭蕉は千住の地から奥州へと旅立ちました。そのため、千住は矢立初め(旅の最初に句を詠むこと)の地として多くの人に親しまれ、平成26年度には「奥の細道 千住あらかわサミット」の開催が決定。その記念として、10月にプレイベント「千住まちあるきツアー」が催され、多くの参加者が芭蕉の足跡や史跡をめぐり、 歴史の息づく荒川区を体感しました。みなさんも一度、歴史ロマンあふれる荒川区を歩いてみませんか。
JR南千住駅をスタートし、観光ボランティアガイドの案内で参加者が最初に向かったのは、延命寺と回向院です。いずれも江戸時代のお仕置き場であった小塚原刑場の跡地に建つ寺院。延命寺では罪人たちの供養のために造立された首切地蔵❶を、回向院では蘭学医である杉田玄白の観臓記念碑❷などを拝観しました。「玄白らはここで刑死者の腑分け(解剖)に立ち会い、『解体新書』の翻訳を決意したといわれます。そのため、日本の近代医学発祥の地といえますね」とガイドさんの詳細な解説に、参加者のなかにはメモを取る姿もありました。
情緒あふれるコツ通りを歩き、一行が到着したのは素盞雄(すさのお)神社❸。七九五年に創建された霊験あらたかな古社の境内には、「奥の細道矢立初めの句碑」が建ちます。石碑に刻まれた「行く春や鳥啼魚の目は泪」の句に、芭蕉は見送りの人々と別れ旅立つ気持ちを込め、『おくのほそ道』の終着地である大垣(岐阜県)では「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」と、また新たな旅立ちに向けた思いを詠みました。
ガイドさんからの「〝行く春や〟と〝行く秋ぞ〟という一連の流れは、旅に生きた芭蕉の人生そのものを感じられるような気がしますね」という、趣のある解説に参加者は「もう一度、『おくのほそ道』を読んでみようかしら」「芭蕉も素盞雄神社に来て旅の無事を祈願したのでしょうか」と旅に生きた俳人芭蕉に思いを馳せます。
次に一行が向かったのは千住大橋にほど近い熊野神社❹。一五九四年に千住大橋が完成した際に橋の残材で社殿が修理され、以後、橋の架け替えごとに橋の完成祈願と社殿修理が慣例になったといわれます。ガイドさんからは「荒川(現・隅田川)は、その名の通り〝荒ぶる川〟でしたので、架橋はとても大変でした」と、現在とは違う川や橋の様相が語られました。
芭蕉や千住大橋の歴史を学んだ参加者たちは、芭蕉が旅立った千住大橋❺へ。心地のよい秋の風が吹き渡る千住大橋を、参加者たちは奥州へと向かう芭蕉と自分を重ね合わせながら渡りました。荒川ふるさと文化館❻では、十九世紀前半の千住の河岸周辺を再現したジオラマや荒川区内で発掘された遺跡や土器などを見学。実物や模型、映像を通じて歴史の見聞を広めました。円通寺では、戊辰戦争の壮絶さを無数の弾痕が物語る旧上野の黒門(区指定文化財)❼や彰義隊のお墓などが案内され、参加者たちは新政府軍と戦った彰義隊戦士に手を合わせます。
最後は商店街「ジョイフル三の輪」あたりをめぐりました。このあたりは大名の名前が地名として残る場所。大関屋敷付近❽でガイドさんは大関横町の由来となった黒羽藩主大関増業(ますなり)・増裕(ますひろ)を紹介し、増裕の写真を手に「とっても男前でしょ!」と笑いを交えながら、参加者を楽しませていました。参加者からは「こういった街の歴史を子どもたちにも教えてあげたい」との言葉も聞かれ、未来へとつながる「千住まちあるきツアー」は幕を閉じました。
ボランティアガイドさんの説明が分かりやすく、芭蕉のことや荒川区の歴史を深く学べて、とても楽しめました。さまざまな歴史を今まで知らずに過ごしていたんだなと、改めて実感させられました。
今回のまちあるきで、円通寺の観音様の原型が高村光雲作と聞いて、本当にビックリ!なぜかというと、私の祖父は彫刻家で高村光雲の弟子だったんです。何か縁を感じて、嬉しかったです。心の底から楽しめました。
「千住まちあるきツアー」を実際に体験してみましょう!「千住まちあるきMAP」を活用して、荒川区のさまざまな史跡や名所を巡ってみてください。
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千住から旅立った芭蕉は、通行手形を得るために黒羽藩大関公の下屋敷に滞在していたのではないかと考察し、参加者の皆さんを大関横丁へご案内しました。当時の芭蕉の行動を想像しながら、荒川区を巡ると一層楽しくなると思います。
問合せ:奥の細道千住あらかわサミットプレイベント事務局(東京新聞内) 03-6910-2483(平日10:00~17:00)
主催:奥の細道千住あらかわサミットプレイベント実行委員会・荒川区・荒川区教育委員会