記念講演会

 俳人・松尾芭蕉が奥の細道の矢立初めの地とされる千住を擁する荒川区は、平成二十六年度に「奥の細道千住あらかわサミット」の開催を決定した。そのプレイベントとして、十月二十一日、「奥の細道千住あらかわサミット記念講演会」を日暮里サニーホールで開催。第一部では、現代俳句協会名誉会長で朝日俳壇選者の金子兜太さんが「人間芭蕉とその旅」と題して講演。第二部では、洋画家で荒川区観光大使の城戸真亜子さんが「芭蕉の町をクネクネ歩き!」と題して、現在の荒川区南千住の町について、荒川区在住者ならではの目線で語り、区内外から訪れた約五百人の聴衆を沸かせた。

「人間芭蕉とその旅」

俳人 金子 兜太さん

「芭蕉の旅は荒川から」

 私は、芭蕉は荒川区側から橋を越えて奥の細道の旅に出たと確信しています。この旅の一番大事な狙いは、修験道の霊験あらたかな羽黒神社にしばらく滞在して思索を練り、自分の哲学を得ることで、そのためには素盞雄神社に泊まって身を清めて、翌日、旅立つという演出が必要でした。

 芭蕉は四十一歳になったとき、野ざらしの旅に出ます。その決意の句が「野ざらしを心に風のしむ身哉」です。

 「馬をさえ眺むる雪の朝哉」。雪の降った朝、日の光の中に視界が白々と広がって、その中にぽつんと立っている街道の馬をしみじみと眺めている自分がいる。江戸暮らしでは気付かなかったことです。近江に近づくころには、「山路来て何やらゆかしすみれ草」。こういう気取らない、素直な子どものような句を淡々とつくるようになります。旅に出て、しみじみと物に触れて、今まで自分はむなしいことをやっておったことに気付いたのではないでしょうか。

 心の世界のことを虚というなら、旅で出会ったもの、自然及び人間の生活の風景は実だ。虚実皮膜の間を見つめれば本当の俳句になるのではないかと考えるようになっていきます。

野ざらしの旅の集大成

 四十二歳で江戸に帰ってきて、翌年、深川でつくったのが「古池や蛙飛び込む水の音」です。この句は、野ざらしの旅で会得した物と心を一緒にして俳句をつくっていくことの集大成として生まれてきたと私は見ています。「古池や」は心の世界であって、そこの風景ではない。まさに蛙が何かに飛び込んだという事実、そこにどういう心を持たせるか。

 その意図が一番はっきり出てくるのが『更科紀行』です。木曽路を歩いて姨捨に行き、月を見ることによって、今まで誰もつくらなかったような俳句を創作したい、そういう究極の目的があったのではないかと思います。

 そしてできたのが「俤や姨ひとりなく月の友」です。謡曲『姨捨(うばすて)』を踏まえたもので、お月様がこうこうと照っているもとで、おばあさんが一人泣いている映像が見事に描きとれている。この句をつくるために芭蕉は姨捨まで行って『更科紀行』を書いたというのが私の結論です。

虚実皮膜を見つめ続けた芭蕉

 俳句は創作で、それによって虚実皮膜を演ずる。これが芭蕉の中にきちんとはまり込み、実行されたのが、翌々年の『おくのほそ道』です。『おくのほそ道』では、大石田から船に乗って目的の羽黒山まで下ると書かれていますが、本当はちょっと下流の本合海という最上川の乗船口から船に乗って出羽に行ったのです。私の推測では、芭蕉は出羽で自分が目標にしていた哲学が得られた、このドラマを盛り上げるためには、みちのく歌仙を土地の人たちと書いた大石田から梅雨の水を満々とたたえた最上川を下って羽黒山に行くという道行きでなければならなかった。創作行為というのは、芭蕉がやるような強引なもの、ドラスティックな非情なものです。

 出羽三山に登り、芭蕉は「天地流行」という哲学を体得します。動かないものと流れていくものがあり、その絡み合いの中にこの世がある。永久に真実であるものがあり、同時に常に変化していくものがある。この哲学を得たことにより、虚実皮膜の間が本当に生きてくる。これを俳句で捉えていくことで、一つの体系、芭蕉学ができたと自信を持ったようです。

 ですから、出羽を出て象潟へ行って、日本海岸をずっと歩いていく旅の叙述の中心は人間の俗事で、「一つ家に遊女も寝たり萩と月」という句をつくっています。天地というものの存在が確認できたから、流行の相を見つめて、この世界に自分の俳諧の中心を置いていく、そういう考え方になってくるのです。

 結論を申し上げると、芭蕉というのは、俳句に創作ということを導いて、人間世界のうそもまこともこきまぜて、それを自然という実と合わせて俳句に書き出していく、これを狙った男です。

「芭蕉の町をクネクネ歩き!」

荒川区観光大使 城戸 真亜子さん

昭和の香りと川に癒やされる荒川生活

 人の体は70%が水ですし、生まれる前は羊水に浮かんでいますから、水のある風景に癒やされるのかもしれません。私も川のそばのアトリエに憧れていて、ついにこの荒川区南千住を探し当てました。実際に隅田川のほとりは、車も人もいない広い空間が川の上に広がり、季節感のある草木が生い茂って、本当にゆったりした気分になります。

 きょうお話しするに際して、私は、荒川ふるさと文化館の館長さん、区の観光振興課の方をはじめ、いろいろな方に荒川区の魅力を伺いました。文化館では昭和四十一年当時の復元家屋を興味深く拝見しました。私が荒川の町をクネクネ歩きしていても、そこここに昭和の原風景的な路地や家屋が残っています。木密地域の不燃化が進められるのは防災上、仕方のないことかなと思いますので、今の町の眺めは本当に貴重だと感じています。

芭蕉は荒川から旅立った

 もちろん芭蕉さんの奥の細道出発地論争のお話も聞きました。芭蕉さんが旅立ったのは隅田川の北の足立区側か、南の荒川区側か。文化館の館長さんのお話によると、芭蕉さんは荒川区側、つまり江戸側にいて北のほうを眺め、これからの三千里の長旅にしみじみと思いをはせたのではないか。そして、素盞雄神社に過酷な旅の成就を祈願したのではないか。これはクネクネ歩きをしていると、旅立つときの情緒としてとてもよく理解できます。

伝統野菜にもんじゃ学 奥深い荒川の町

 さて、クネクネ歩きにはグルメが欠かせません。おそば屋さん、洋菓子屋さん、パン屋さん、製麺屋さん、魚屋さん、焼肉屋さん、パウンドケーキ屋さん等々、おいしいお店が荒川の町には本当にたくさんあるのですが、実は荒川はもんじゃの町でもあるのです。六十軒以上のお店があちこちに散らばっているため、月島のほうが有名になりましたが、荒川には何ともんじゃ学研究会もあります。それと、この地域の将来のグルメとして伝統野菜の三河島菜があります。今、地元の皆さんが一度絶えたこの野菜の復活に取り組んでいます。私も家で育てています。六十センチまで育つそうなので、そこまで頑張ります。

 今回の講演を機に、特に芭蕉さんを中心に荒川の歴史を学び、私の南千住暮らしはものすごく奥深いものになりました。これからもこの地をクネクネ歩きして、川の見えるアトリエで絵を描いて、おいしいものを食べて、もんじゃを囲んで盛り上がって、楽しく生活していきたいと思います。皆さんもぜひ荒川の町をクネクネ歩きなさってみてください。

芭蕉の旅の起点は荒川区

荒川区長 西川 太一郎 〈特別区長会会長〉

 荒川区の素盞雄(すさのお)神社には『奥の細道』矢立初めの句碑があり、我々荒川っ子は芭蕉の旅の起点は荒川区だと信じています。二十六年度には、芭蕉ゆかりの自治体・関係機関による持ち回りのサミットが荒川区で開催されます。どこもまねできない本格的サミットにするつもりです。その前に本日のサミット記念講演で、抽せんとなるほど多くの方が参加をご希望された金子兜太先生と城戸真亜子さんのお話を存分にお楽しみください。

芭蕉ゆかりの地 友好に喜び

荒川区議会副議長 吉田 詠子

 芭蕉は生涯で何度も旅をしました。中でも最大の旅が奥の細道です。『奥の細道』矢立初めの地と自負する荒川区は、奥の細道の結びの地、岐阜県大垣市と友好交流都市提携及び災害時相互応援提携を結んでいます。芭蕉翁にご縁のある都市同士が親しくお付き合いするのは大変素晴らしいことです。来年開催のサミット本番を控え、本日のサミット記念講演会にも大勢の皆さまにご来場いただきました。ご盛会を祝し、ごあいさつといたします。

大勢のイベント参加を期待

実行委員長 対馬 康子

 今日は、九十四歳の金子兜太先生が奥の細道をパワフルに語られました。まるで芭蕉が眼前にあらわれたようでした。一転して、城戸真亜子さんは、華やかな語り口で荒川区の歴史やおいしいお店をご紹介しつつ、クネクネ歩きを再現されました。私はこの魅力ある荒川区の区民であることをあらためて誇らしく思いました。今後も来年度のサミット本番に向けて種々のイベントが催されます。本日同様、大勢の皆さまの参加をお待ちしております。

問合せ:奥の細道千住あらかわサミットプレイベント事務局(東京新聞内) 03-6910-2483(平日10:00~17:00)
主催:奥の細道千住あらかわサミットプレイベント実行委員会・荒川区・荒川区教育委員会